初代の新垣盛弘は首里の出であるが、祖父の代に宮古へ移り住んだため、初代は宮古島で生まれ、19歳まで宮古島で暮らし、首里に戻ったのは戦後でした。
中学を卒業すると陸軍に入隊、昭和17年8満州除隊で沖縄に帰ったが、当時は不景気で仕事がなく、仕方なく満州で事業を行う叔父のもとへ行き、計理士として働く。
昭和19年帰沖したが第2次大戦で召集を受け、再び軍隊生活に。戦争中は八重山の守備隊員だった。終戦になると沖縄本島に戻り、先祖代々からの地所、首里金城町に戻って家を構えました。
戦後の仕事はアメリカ軍の軍作業でした。やがて世の中が落ち着きを取り戻し、民間会社が出来始めるとすぐに転職。ある倉庫会社の計理士になる。その後、大宝館、国映館と職場を転じたが、当時は今と異なり、戦後の後遺症で物がなく、みな苦しい生活を余儀なくされていた時代でした。
そんな時に佐賀県の養蜂家山口雄三さんと出会うことに。山口さんは蜂蜜の普及と種蜂販売のために来沖してもので、初代に対し蜂蜜のすばらしい栄養価やローヤルゼリーの神秘的な効果について説いた。この話を聞いてすっかり養蜂の虜になった初代は早速種蜂を2郡購入した。山口さんは「沖縄は1年中暖かく四季を通じて花が咲き、蜂蜜が採れてもうかりますよ。」といった。
当時の月給が40ドルだったので、1箱(1万匹)で20ドルという不相応な買い物だったが、家計の苦しさを助けるため、副業として養蜂をやろうと思ったのです。初代と他4名が、沖縄で養蜂を始めました。
蜜蜂の飼い方や蜜の採り方はわりと易しかったのでうまくいったが、当時は健康食品など皆無だったし、蜂蜜のことも知らない人が多かったため、蜂蜜は全く売れず、家計を助けるたしにはならず、収穫した蜂蜜はやむなく自家用として消費することに。自家用として蜂蜜を愛用しているうちに、初代は蜂蜜の神秘な味にとりつかれ、細々と養蜂を続けていきました。
待てば回路の日和ありというが、1970年代から健康食ブームが起こり、突然蜂蜜の売れ行きがよくなってきました。それ以来、2代目社長も加わり専業養蜂家になりました。
初代は『ミツバチは人間のために神様が創って下さった不思議な昆虫で、農作物の増産にも貢献し、大きな利益をもたらしている。』と言っていました。
ミツバチはまさに人類のために生まれたような昆虫だと初代の讃美は尽きません。
これからの求められる養蜂家
近年、宅地開発、農薬散布、温暖化などの影響を受け、はちみつなどの蜂産品生産量が年々減ってきています。
今後の養蜂家は『自然と人間の共生』をテーマに啓発活動と植栽活動を行っていくことが重要です。
植栽は地元の原種を中心に年間通して花が咲くことを目標とし、子どもから大人までどのような自然環境が必要か考えるための働きかけをしなければいけません。
ミツバチは半径2kmを活動範囲として飛び交っています。別名『環境監視昆虫』と呼ばれています。ミツバチの減少は環境悪化の証拠であり、自然からの警告です。
ミツバチを通じて国連が発信するSDGsの基礎となる生態系を学ぶことができます。
ミツバチという声なき小さい者たちの代弁者として、本当の意味で『人と自然がともに生きる』という課題に向き合い、この地をニライカナイやエデンの園、桃源郷と言われ、どんな生き物にとっても天国となるような環境のために活動し、啓発していくことに力を注いでいきます。
私自身、生かされていることへの感謝と喜び、未来への祈りを持ち続けるだけでも多くの葛藤があり、成長への糧であると信じています。
これまで多くの方々に支えていただき、これからの活動に賛同する方々へ感謝していきます。
現在では、『首里ミツバチ・花いっぱいプロジェクト』を首里まちづくり研究会と共に地域を花でいっぱいにしようと活動中です。
詳細はこちら ⇒ http://honeybee.e-sui.com/product
当店が取り組むSDGsは
※169のターゲットナンバー
2.4 4.7 6.6 8.4 11.4 12.8 12.b 15.1 15.4 17.17
※SDGsとはこちらを参照ください。
https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/kokusai/02toukatsu01_04000212.html
蜜搾り体験やミツバチ教室も各地で開催中!!
ご依頼もお受けしていますので、ご連絡ください。
二代目 新垣 勉㊧
三代目 新垣 伝㊨
※三代目の紹介はこちら⇒https://maga.daikyo-k.net/arakakiyouhouen/